このページにお越しいただきましてありがとうございます。本サイトでは、前田博と前田家四男 佑樹が、1年10ヶ月かけてついに達成した、八重山号世界一周航海の記録を綴っております。ぜひご覧ください。


親父について来い!息子との八重山号世界一周夢航海記

世界一周航路

登場人物

前田博(yaima号船長)

佑樹(前田佑樹:前田家4男坊)


リンコーちゃん(台湾からのクルー 台湾の小学校で英語の先生をしている)

マックス(ベルギー生まれのフランス人、佑樹の友人)


デボラさん (台湾からのクルー 大学で英語を教えている教授)

彩ちゃん 永尾彩子(前田博の会社スタッフ)

頼ちゃん 斎藤頼子(前田博の会社スタッフ)


はじめに

 結局、私は50年も夢を見ていたことになる。

 

北海道の山育ちで、小学生の時に親に連れられて車窓からの水平線を見た瞬間から海のとりこになった。もちろん私は忘れているが親からある時に「博はいつまでも海から上がって来なかった。くちびるが真っ青になっても上がって来なかった」という言葉を聞いた事がある。

 

幼少期のことなど微塵も覚えていないし、その後「海が、海が」と思いながら、日暮ししていた訳では決してない。今思うと、家族旅行での短いひと夏の海水浴は、冷たい水温だったにもかかわらず、どこまでも真っ平らな水平線で、それらとの戯れが、私を芯まで未知なる海のとりこにさせたことは、私自身驚きである。

 

大学では造船学を勉強しヨット部に所属したが、大学生活が始まるや自然気胸という厄介な病気が私を襲った。普通の生活をしていて肺が、パンクしてしまう病気だ。

 

【幸いにも病気を】治癒出来た私は、夏の終わりの長期合宿に合流した。自然気胸の再発もなく部活動のおかげと大学病院の治療効果もあり、私は人生の小さな山を越えた。それ以後、まさに光陰矢のごとく海にどっぷり浸かり、セーリング漬けとなった。

 

相棒、前田佑樹という人間

佑樹は私の4男坊。彼を私のクルーとして最終決定したのは、出航まで2年ほど前のことだ。佑樹のことを書く前に序章として私の唯一の家内、和子との戦いを書かずして私の航海はなかったし、信頼できる佑樹というクルーすら存在しない。

まさに家内とは我々の人生を賭けた戦いがあった。

 

実は2009年3月就航開始の15年程前に私は、家内に三行半を突きつけられる寸前で、世界周航を断念した経緯があった。再挑戦は当然、家内の了解を取らねばならない。家内からの条件は「一つ、息子たちに無理強いはしないこと。二つ、冒険はしないこと」であった。私は夜な夜な手を繋いで「もちろん、無理強いはしません。冒険もしません。危ないところへ行きません」を約束ごととして、かけがえのない伴侶から了解をとった。

いよいよ世界周航準備に取り掛かった。

 

 

 

当時、佑樹は大学へ進学し平々凡々とした、ぬるま湯学生そのものだった。私は佑樹に「親父は世界一周航海出航に向け、準備し始めている。お前はそんな大学生活で何をしたいんだ。俺は世界に出る。お前に大学を休学してついて来る気があるなら考えなさい。クルーを探している」と伝えた。

半年後に佑樹から「ついていきたい」という電話が入った。私は内心大喜びで「よしわかった。二人で成功させよう」 

佑樹クルー決定で航海計画の期間が2年と決定した。復学するためだ。

 

Huiling Linというクレージーセーラー

八重山号を入手して世界周航1,2年前のこと。台湾の小学校で英語の先生をしているリンコーちゃん(私が付けたニックネーム)と出会った。

出会いは台湾セーラーと九州からヨット回航途中に立ち寄った石垣島。

八重山そばを食べながらクルージング道中の話を聞いていた。ひょんなことから私が「何でヨットが好きなの?」「ウエットで汚いセーリングは女性に合わないよね」などの話から彼女の経験談を聞いた。

 

そして彼女はとんでもない話を始めた。

「以前にもこのルートでヨットを回航したことがあるの。そのヨットがね、沈んだの」

「小さな島の人たちに助けられて以来、日本が大好きになりました」

その答えに驚いた私は質問攻め。

あきれながらも淡々と話すリンコーちゃんの第一印象は「不思議なセーリング大好きな人」だった。

 

その後、台湾トライアルの歓迎晩餐会場で再会。その晩餐中にリンコーちゃんに「もし我々の航海に興味があれば一緒にセーリングしましょう」と

誘ったのを確かに記憶している。限りなく初対面に近い男たちのセーリングに来るとは想像外である。そしてリンコーちゃんは夏休みの2ヶ月間同乗することになる。以後、大西洋、太平洋と合流し合計航海距離は台湾から太平洋横断以上の航海を達成した。

クレージーな女性登山家の話はまれにはあるが目の前に出くわすとは思わなかった。

 

暗夜、貨物船と衝突事故発生!

 それは世界周航航海出発間際のことだ。

 

台湾

トライアルは3月2日石垣港出港。台湾、高雄港まで行き石垣島に戻る航程で行なった。トライアル航海理由は佑樹のクルージング経験を積みスタートから2ヶ月間、共に同行する斎藤頼子(私の会社スタッフ)の経験値を積むためだ。

安定した北東風季節風予想のもと出港した。長期航海でのクルーワークとして

ワッチ(見張り番)作業がある。石垣港出港前から2時間単位のワッチ体制を

佑樹にも頼ちゃんにも伝えてあり、順調に彼らは高雄港までこなしたのだ。

 

ところが、バシー海峡突入前から佑樹も頼ちゃんも船酔いで動けなくなった。

そうこうしている間に波高も風力も増し、ついに私も船酔いとなった。

しかし、動けないからと言って動かない訳に行かない。

縮帆作業を夕方に一人で終え、バース(寝台)に倒れ込んだ。その後も私は睡魔との戦いをしながら、キャビンからコックピットに出て周りを確認して直ぐにバースに潜り込む作業を断続的に続けていた。そして三昼夜目の未明に起きた。

「ゴツ!、、、ゴツ!、、、!!」バースから瞬間的に跳ね起き、

コクピットに飛び出た。そこで見たものは、「大きな得体の知れないオレンジ色のバルーン!!!」

それが大きな貨物船の舷側であることに気づくまで、どのくらいの時間だったろう。短いような限りなく長い時間があったようにも感じる恐ろしい光景が、そこにはあった。兎に角、これは船だ。大きな船だ。ぶつかった。逃げねばならない。

衝突箇所の確認をした。とりあえず穴はない。浸水もない。マストもリギン(マストを立てるワイヤー)もセールの損傷が無いことを確認した。

 

二人は船内で目を覚ましたが生存している。そうこうしている間に貨物船は船尾灯を眩しく照らして過ぎ去るところだ。私はムカムカと怒りが出て無線機に飛びつき「船名はなんだ!」「船名を教えろ!」を何度、送信しただろう。先方からはその間「Are you all right?」と一言あった。

私は「船名を教えろ!」と連呼した。そして突然、無線は切れ、船尾灯も切れた。

夜明けと共に再度、損傷箇所の点検をしたが奇跡的に軽微に済んだ。幸運な衝突事故だった。